お葬式とかは死んだ人のためでなく、残された人たちのために意味があるという話は、だいたいいくつぐらいで知って、実感するようになるのか。
10代ぐらいまではそういう儀式めいたものはとにかく意味がないとしか思えなかったりするのだけど。
「面接では人の目を見て話せ」とかほんとなのかな。今まで面接らしい面接を受けずに生きていたし、今さら考えなくていいんだろうけど、これから面接受けるとしてもそんなに人の目をじろじろ見ないだろうな。
それに変なアクションするから面接官の視線がそっちに行っちゃって目が合わないと思う。
考えてる時も相手の目を見ないから、ほとんど目が合わなさそう。相手の反応を確認する時ぐらいしか顔を見ない。
だいたいほら、相手のほうもそんなにガン飛ばされたくないでしょ。お互い目を合わせるのも心地いい程度にしておけばいいじゃない。
今日はどんな物語を作ろうか?と思って過ごすといい。
能力とか資産とかお金とかについて、「所有している」という思いが強すぎると生きていくのがつらいかもしれません。
重たい武器や道具をたくさん持って、人生を切り開くんだ!って感じで生きるのもほどほどにしとくのが、精神衛生上よいと思います。
資本主義はあらゆるものに所有者を求めるが、物理現象でも何でもない。
自然なことでもないし、当たり前のことでもない。
所有は幻想。
学習を阻害する言葉
「私は知っている」「あー知ってる知ってる」
茶色いモンスターが現れた(G)
勇者、マジックリンでこうげき。かいしんのいちげき!
モンスターを3秒でたおした!
0ゴールドを てにいれた!
マジックリンがGにこれほど効くというのは、殺虫剤業界にとってはさぞ都合の悪い情報ではないかと思うのだが、意外と広まっていないというのは……(おや、誰か来たようだ)
意味があるかどうか、人類にとって無駄ではないか、本質的なことかどうかみたいなところが興味ポイント。
短期的にはどうせ死なないし、長期的にはどうせ死ぬ。